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この戦争と同時期には、国内でもキリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国による太平天国の乱(1851年 - 1864年)、捻軍の反乱(1853年 - 1868年)、ムスリム(回族)によるパンゼーの乱(1856年 - 1873年)や 回民蜂起(1862年 - 1877年)などが起こり、清の支配は危機に瀕した。太平天国の乱の末、即位した同治帝の母西太后が政権を握ると、曾国藩・李鴻章ら太平天国の鎮圧に活躍した漢人官僚が力を得て、王朝の根幹の制度を維持したまま欧州の技術を導入する洋務運動を開始するに至った。 1881年にはロシアとの間で不平等なイリ条約を締結し、イリ地方をロシアに割譲することになった。 1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対しベトナム宗主権を主張して清仏戦争(- 1885年)を起こすが、これによって冊封国ベトナムを失い、アジアの盟主の地位が激しく揺らいだ。続く1894年、朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が起こり清が出兵すると、朝鮮進出を伺う日本も対抗して出兵して日清戦争(- 1895年)に発展したが、清の敗北に終わり、下関条約によって台湾割譲と朝鮮が自主国であることを確認させられ、朝鮮に対する影響力も失った。 「眠れる獅子」と畏れられた清が、同じアジア人国家の日本に敗北する様子を見た欧州列強は、1896年から1898年にかけて勢力分割を行い、満洲からモンゴル・トルキスタンをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、福建省を日本、華南をフランスが勢力圏とした。同じく、イギリスは香港の九龍半島と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアが旅順と大連を租借地として、それぞれ要塞を築いて東アジアの拠点とした。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、これらの勢力圏は全て平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発した。 中国と書かれたパイが、列強により分割されている風刺画。人物は前列の左からそれぞれ、イギリス・ドイツ・ロシア・フランス・日本を表し、後列の手を挙げている人物は、清朝を示している。これに対し康有為、梁啓超ら若い知識人が日本の明治維新にならって清も立憲君主制を取り国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱えはじめた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取することに成功する(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派の反撃にあって打倒された(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅載儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発をうけ、3日で廃された。 1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンにかかげて外国人を襲いつつ北京に進出した。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、おせち 軍隊の北京進駐を認める北京議定書を結んで屈服した。こうして中国の半植民地化はますます進んだ。 20世紀に入ると、日露戦争(1904年 - 1905年)の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、科挙を廃止し、六部を解体再編し、憲法発布・国会開設を約束し、軍機処を廃止して内閣を置いた。しかし、清は求心力を失いつつあり、孫文らの革命勢力が次第に清打倒活動を広げていた。1911年、武昌での軍乱をきっかけに辛亥革命が起こり、清は完全な内部崩壊を迎えた。 翌1912年1月1日、南京に中華民国が樹立した。北京の最後の皇帝溥儀(宣統帝)は2月12日、正式に退位し、ここに清は完全に滅亡した。 清初期、康熙帝の治世までは未だ部族合議制的な制度が残り、完全な集権体制の皇帝というわけではなかった。その象徴が議政王大臣会議(ぎせいおうだいじんかいぎ)と呼ばれる制度である。この制度は旗王(八旗の長)や皇族・宗族の有力者など実力者が選ばれて会議を行い、政治の方針を決めるものである。この中では皇帝も旗王の一人であり、無限の権力が振るえるわけではない。 それと平行して置かれていたものが明から引き継いだ内閣制度である。ホンタイジ時代には内三院と呼ばれており、行政機関の一つに過ぎず、議政王大臣会議の決定に従うものであった。しかし漢文化を愛する順治帝により、内閣に名を改められて最高行政機関となり、議政王大臣会議は軍事を管轄するようになった。 その後、塗装工事 は議政王大臣会議に権力を制限される事を嫌って、軍事・行政の両方を総攬する皇帝の諮問機関である軍機処を創設して完全なる皇帝独裁体制を整えた。軍機処に権限を奪われた議政王大臣会議は1792年に廃止される。 中央には軍機処の他に六部・内務府(宮廷諸事)・宗人府(皇族・宗族の事務)・理藩院(藩部の統括。藩部については後述)・都察院(官僚の監察)・通政使司(上奏分の検閲)・大理寺(最高裁判所)がある。 地方は皇帝直属である省と藩部と満洲族の故地である満洲とに分かれている。 藩部はホンタイジが最初に内モンゴルのチャハル部を服属させた時に蒙古衙門(もうこがもん)を置いてモンゴルの統治に当たらせた事に始まる。その後、蒙古衙門は理藩院と改名し、外モンゴル・新疆・チベット・青海を服属させると藩部と総称するようになった。基本的に藩部には土民の旧制を維持し、行政官は当地の実力者をあてて半自治を行わせ、その上から理藩院が管轄するという形を取っている。 省はほぼ現在の予備校 と同じものが置かれている。直隷(河北省)・江蘇省・安徽省・山西省・山東省・河南省・陝西省・甘粛省・浙江省・江西省・湖北省・湖南省・四川省・福建省・広東省・広西省(広西チワン族自治区)・雲南省・貴州省の18である。省の下に府・州・県がある。府・州・県の長官はそれぞれ知府・知州・知県と呼ぶ。省の長官は巡撫と呼ばれ、またそれとは別に複数の省を統括する総督があり、双方が州の民政・軍事を司っていた。 満洲族の故地である満洲地方については省は置かずに、それぞれ黒竜江将軍(黒竜江省)・吉林将軍(吉林省)・盛京将軍(遼寧省)らに軍政を行わせて満洲族の軍事力を弱体化させないようにした。またこの地に対する漢民族の移住を禁止して、満洲族が漢民族に同化してしまわないようにした。