初心者のための先物取引

粗糖

清代に入り、それまでの中国的な文人像が相対化されたことでそれまではこれをしなければ文人にあらずと思われていた漢詩の分野もまた相対化されて、必ずしも必須のものではなくなった。もちろん多数の作者により、多数の作品が作られており、全体的には高いレベルにあったが、しかし飛びぬけた天才・名作は無い。 一方、明代から引き継いで小説・戯曲の大衆文化は盛んであり、小説では『聊斎志異』『紅楼夢』、戯曲では『長生殿伝奇』『桃花扇伝奇』などが作られている。それまでは俗と考えられていたこの分野もこの時代になるとそうは捉えられなくなり、官僚層の間でも小説を評価する動きが出てきた。 現代中国で普通話と呼ばれる北京語が成立したのも清代である。本来北京周辺で話されていた言葉と東北地方の語彙が混り合ったものとなったため、北京語は他の方言とは異なる特徴を持つ言葉となった。 絵画の分野ではイエズス会士ジュゼッペ・カスティリオーネによってもたらされた遠近法を取り入れた新しい絵画の誕生が見られる。また明初の石濤、八大山人といった明の遺民たちは清に対する抵抗を絵に描き表した。 陶磁器の分野では景徳鎮は陶磁器生産の大工場としての地位を保っており、明代から引き継いで赤絵・染付などの生産が行われた。しかし乾隆以降はこれらは急速に下火になり、質的にも大きく劣ると評価される。 瀋陽にある清の旧王宮は北京と瀋陽の明・清王朝皇宮として世界遺産に登録されている。 清朝はすでに満洲時代にモンゴルの諸部族を併合し、朝鮮に朝貢させており、清軍が華南に進むにつれて琉球、マカオのポルトガル人、ベトナム(安南)が朝貢してきた。また呉三桂が南明の永暦帝を追って雲南からビルマに入った。しかし三藩の乱や台湾鄭氏政権の抵抗のため、海上からの朝貢は鄭氏が投降するまで本格的に始まらなかった。その後、広州などを開放して東南アジア諸国や英仏などの交易を許した。特にタイのアユタヤ王朝は清朝の要請を受けて、タイ米を広東や福建に輸出した。清朝は明朝と違い、厳格な海禁政策は取らなかった。日本の江戸幕府は朝貢してこなかったので外交関係はなかったが、中国商船の長崎貿易は許されていた。欧州との関係についていえば、マカオ経由で入国したイエズス会員らカトリック宣教師が明末以来引き続き北京に滞在し、主に科学技術や芸術技能をもって朝廷に仕えていた。 北辺ではシベリアに進出したロシアが満州北部に迫り、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって中露国境が定められた。 19世紀に入ると産業革命が進む欧米と中国との力関係が逆転し、特にナポレオン戦争後の世界の覇権を握ったイギリスを中心として中国侵略が開始され、後発のロシアや日本もこれに加わった。その結果、アヘン戦争、アロー号戦争(第2次アヘン戦争)、清仏戦争(ベトナム宗主権を巡る)、日清戦争(朝鮮宗主権を巡る)、義和団の乱が起こり、清朝はイギリスに香港島を割譲したのを始め九龍・新界租借地、威海衛租借地、ロシアに旅順大連租借地(後に日本が譲渡され関東州租借地)や東清鉄道利権、ドイツに膠州湾租借地、フランスに広州湾租借地を与えた他、日本に台湾を割譲した。また上海にも共同租界やフランス租界が設置され、列強の中国侵略の足場となった。 皇帝の姓を愛新覚羅(あいしんかくら)という。本来の満洲語ではAisin gioro(アイシン・ギョロ)と発音し、 アイシンは「金」、ギョロは「氏」ということで、即ち「金氏」を意味する。 清は、一世一元の外為 と踰年改元制を明から引き継いだので、元号は各皇帝につき一つずつである(在位中に改めて大清皇帝に即位し改元したホンタイジは例外)。順治帝以降の入関後の各皇帝は廟号・諡号をもって呼ばず、その皇帝の時代の元号に「帝」をつけて呼ぶことが慣例になっている。 カルロヴィッツ条約(カルロヴィッツじょうやく)は、1699年にオスマン帝国とヨーロッパ諸国との間に結ばれた講和条約。この条約で、オスマン帝国は初めてヨーロッパ諸国に領土を割譲し、またオーストリアは三十年戦争以来の長期の低迷を脱して中ヨーロッパへの拡大を開始する契機を得た。 なお、この時のオスマン帝国の交戦国のうちロシアはカルロヴィッツ条約には参加せず、翌1700年に個別にコンスタンチノープル条約(イスタンブル条約)を結んでいるが、本項で併せて取り扱う。コンスタンチノープル条約は、ロシアにとっては黒海・バルカン半島を目指す南下政策の第一歩となった条約である。 17世紀後半、オスマン帝国はキョプリュリュ家の長期政権のもとでオーストリア、ヴェネツィア、ポーランド、ロシア(モスクワ大公国)の諸国と相次いで戦い、ヨーロッパにおいて史上最大の版図を実現していた。キョプリュリュ家の政権を継承したカラ・ムスタファ・パシャはこの成功の総決算として1683年、オーストリア領の奥深く侵攻し、第二次ウィーン包囲を敢行するが、ポーランドを中心とする中央ヨーロッパ諸国連合軍の反抗を受けて惨憺たる失敗に終わり、カラ・ムスタファは失脚した。 一方、この包囲戦をFX に中央ヨーロッパの諸国はローマ教皇の呼びかけを受けて大同団結し、教皇領、オーストリア、ポーランド、ヴェネツィアからなる神聖同盟を結成、イスラム勢力のキリスト教世界からの追放を旗印に、オスマン帝国との長期戦に突入した。のちには、ポーランドの誘いにより、ウクライナ(ポドリア)の領有をめぐってオスマン帝国と潜在的敵対関係にあった非カトリックのロシアも参入した。 敗戦及びカラ・ムスタファの失脚に伴う混乱に加えて、多正面での戦闘を余儀なくされたオスマン帝国は各方面で領土を奪われ、ヨーロッパにおける勢力の大幅な後退を余儀なくされた。 戦争の後期には戦線が膠着し、末期にはほとんど戦闘が行われないまま講和の交渉が行われた。交渉は難航したが、オスマン帝国は、ロシアを除く各国と1699年にハンガリー南部のカルロヴィッツで講和条約を締結、ロシアとは翌1700年に首都イスタンブルでコンスタンチノープル条約を締結し、戦争を終結させた。 メシュエン条約(Methuen Treaty)は、1703年にイギリスとポルトガルの間で締結された通商条約。調印はリスボンでなされた。メシュエン通商条約とも称する。 1580年から1640年にかけて、ポルトガルはスペインに併合されていた。独立戦争を経て再び独立を取り戻すが、その際に国土が荒廃してしまった。その地にぶどうやオリーヴを生産したため、ポルトガルでは17世紀後半よりワインの生産量が増加していた。その最大の取引先がイギリスであり、対英関係が重視されることになった。こうした中、1703年、イギリス大使のジョン・メシュエンとポルトガルのアレグレテ侯の間で結ばれた通商条約がメシュエン条約である。 この条約によって、ポルトガルは従来の保護貿易政策を転換させた。すなわち、ポルトガルはイギリス産毛織物の外国為替 を受け入れることになった。その代償として、イギリスはフランス産ワインより低い税率でポルトガル産ワインを購入することになった。 メシュエン条約の締結後、ポルトガルのワイン輸出は増大した。しかし、イギリスからの毛織物の流入はそれ以上であり、ポルトガル自国の毛織物産業は壊滅的な打撃を受けた。こうして、徐々にポルトガルはイギリス経済の従属下におかれることになった。17世紀末にポルトガル植民地のブラジルで金鉱が発見されゴールド・ラッシュが発生したが、その利潤もほとんどがイギリスに流出した。また、ポルトガルを通じてイギリスはブラジル植民地へも市場拡大を果たすことになった。こうして、ポルトガル海上帝国は、イギリス帝国の傘下へと組み込まれることとなった。