イギリスは1763年宣言でアパラチア山脈を越えてのアメリカ人の進出を規制していた。それにも関わらず開拓者集団が西部への移住を続けた。宣言は間もなく修正され開拓者に対する障害とはならなくなったが、宣言が発行されたことと、アメリカ人には何の相談も無く書かれたということが植民地人の怒りを買った。1774年のケベック法はケベックの境界をオハイオ川まで伸ばし、13植民地の要求を拒絶するものだった。しかし、この時までにアメリカ人はイギリスの新しい法律をほとんど無視するようになった。開拓者達は民兵を鍛え、戦争の準備をしていた[8]。 ガスペー号の焼き討ち ボストン茶会事件アメリカの独立には多くの原因があったが、一連の出来事が最終的には戦争勃発の引き金になった[9]。1772年6月、ガスペー事件が起こった。不人気な貿易規制を活発に強制する活動を行っていたイギリスの艦船ガスペー号がアメリカの愛国者によって燃やされた。その後直ぐに、マサチューセッツのトマス・ハッチンソン知事は、知事と判事がロンドンから直接給与が払われていることを報告したが、これは植民地議会を無視するものであった。1772年遅く、サミュエル・アダムズは13植民地全体を繋ぐ通信委員会を新しく作り、革命勢力の政府となる枠組みを作った。1773年早く、最大の植民地であるバージニアがその通信員会を創設し、パトリック・ヘンリーやトーマス・ジェファーソンが任務にあたった[10]。 植民地人のいわゆる「耐え難き諸法」は、イギリス議会が法制化した4つの法律からできていた[11]。1つ目は「マサチューセッツ統制法」であり、マサチューセッツに対する特許を修正し、町の集会を制限した。2つ目は「司法管理法」であり、イギリス兵が法廷に召喚されるとしても植民地でではなく、イギリス本国の法廷でということにされた。3つ目は「ボストン港法」であり、ボストン茶会事件で失われた茶の弁償が済むまでボストン港を封鎖することであった。ただし、茶の弁償は結局なされなかった。4つ目の法は1774年の「宿営法」であり、知事が使われていない建物をイギリス兵の宿舎に当てることを許可していた。1774年秋に開催された第一次大陸会議は「耐え難き諸法」が憲法に反しているという、いわゆるサフォーク決議を採択し、大衆には民兵の組織化を、マサチューセッツには愛国者の政府を作ることを要求した。 このことを受けて、特にマサチューセッツ統制法に対応するためにウースターの住民は土地の政庁舎の前で武装したピケを張り、イギリスの判事の入庁を拒んだ。同じような出来事が植民地中で起こった。イギリスは本国から増援隊を送ったが、その部隊が到着する前に、防御の厚いボストン市を除くマサチューセッツ植民地全体が地域の事情に関してはイギリスの統制から外れてしまった。 ベンジャミン・フランクリンによって作成された「戦いに加われ、さもなくば死を」の漫画。イギリスに対抗するために植民地の団結を繰り返し訴えた。1775年4月19日、レキシントン・コンコードの戦いが起こった。これはイギリス軍がくりっく365 をマサチューセッツのコンコードに送って植民地の武器を押収し、反乱の指導者を逮捕しようとした時のことであた。これがアメリカ独立戦争の最初の戦いとなり、その知らせは瞬く間に13植民地中に広まり、植民地は民兵を召集してボストン包囲のために派遣した。1775年6月17日にはバンカーヒルの戦いが起こった。1776年3月にジョージ・ワシントンを総司令官とした大陸軍は、イギリス軍をボストンから撤退させた。革命勢力は13植民地の全てを確保し独立を宣言する準備が整った。多くの王党派の存在があったが、1776年6月時点ではどこも支配してはいなかった。イギリスの役人も全て逃亡した[12]。 第二次大陸会議が戦争の始まった後の1775年5月に招集された。大陸会議は大陸軍を創設し、和解のためにオリーブの枝請願をロンドンに送った。イギリス国王ジョージ3世はその受け取りを拒否し、その代わりに反乱状態を宣言して「裏切り者」に対する行動を要求した。この後1783年まで具体的な和平交渉は無かった。 革命勢力は当時「愛国者(パトリオット)」とか、「ホィッグ」、「会議派」、あるいは「アメリカ人」と呼ばれた。愛国者には社会的また経済的に幅広い階層の者が含まれていたが、アメリカ人の権利を守るという必要性については一体となっていた。戦後、ジョージ・ワシントン、ジェームズ・マディスン、ジョン・アダムズ、アレクサンダー・ハミルトンおよびジョン・ジェイといった愛国者は深く共和主義を信奉し、裕福で力強い国家の建設に邁進した。一方、パトリック・ヘンリー、ベンジャミン・フランクリンおよびトーマス・ジェファーソンといった愛国者は民主主義を推進力とし農業を基本として、大きな政治的平等性のもとに地域に分散したFX を望んだ。 「愛国者」という言葉は単に、アメリカの独立側に付いた植民地の人という意味合いで使われた。革命勢力を「愛国者」と呼ぶことは、長い歴史の慣習に立ったものであり、この時もそうであった。どちらかの側に付いているという偏見を表す意味合いは無かった。 王党派の数については実際に計数する方法はないが、歴史家は植民地人の15%ないし25%は国王に忠実なままであったと見ている。当時の呼び方は「ロイヤリスト」、「トーリー」、あるいは「国王の人」であった。典型的な王党派は年長であり、進んで国王への忠誠を捨てようとはせず、多くはイングランド国教会との結びつきが強かった。ボストンのトマス・ハッチンソンのようにイギリス帝国との結びつきの強い事業を行う成功した商人が多かった。しかし、この戦争は突き詰めれば内戦であったので、同じ家族でも両派に分かれる場合があった。ベンジャミン・フランクリンの息子でニュージャージーの知事であったウィリアム・フランクリンは、戦争の全期間を通じて王党派の立場を崩さず、父との対話も途絶えた。アメリカに移民してきてから未だ日の浅い者は、完全にアメリカに同化して居らず、国王を支持する傾向があった。内陸に開拓者として入ったスコットランド人がこの例である[13]。 高貴の生まれではなくて王党派であった顕著な例もあるが、その数は歴史家の推計の中には含まれていないと思われるものがある。その中でも代表的な例はアメリカの先住民族であり、アメリカ人は中立であってくれればと思っていたがこれを拒否することになった。多くの種族がイギリス帝国との同盟に動いた。地域の住民や指導者との提携を確保する動機付けが両派からなされていたが、植民地との交易に多くを頼っていた種族は革命勢力に付く傾向があった。ただし、政治的な要素も重要であった。王党派に付いた先住民族の指導者の中でも最も有名なのが、モホーク族の指導者ジョセフ・ブラントであり、ペンシルバニアやニューヨークの孤立した開拓地を襲って回った。しかし、1779年のサリバン遠征隊によってニューヨークから追い出され、王党派の先住民族はカナダへの移住を余儀なくされた[14]。 他にも王党派に付いてはいたが、文献などに記録されていないのがアフリカ系アメリカ人奴隷であり、奴隷から解放してくれたお礼に、あるいは家族を守るため、ある場合には土地の特許を得るため(しばしばその約束は反故にされた)に積極的にイギリス軍に従軍した。戦争の進行に従ってこれら黒人王党派の多くがノバスコシア、アッパー・カナダ、ローワー・カナダなどイギリス帝国のあちこちに移住し、今もその子孫が残っている[15]。