パリ条約と呼ばれるイギリスとの和平条約で、アメリカはミシシッピー川から東、五大湖の南の領土を獲得した。ただし、フロリダは含まれなかった。1783年9月3日、イギリスはスペインと別の条約を結び、フロリダをスペインに返還した。割譲された地域に住む先住民族は条約交渉の席におらず、アメリカに軍事的な敗北を喫するまで条約のことを認識していなかった。境界と負債の問題は1795年のジェイ条約まで解決されなかった[30]。 アメリカ合衆国住人の5%すなわち王党派にとって、敗北は追放が伴うものであった。おそらくは10万人、最大でも25万人の王党派が新しくできた共和国を離れ、ケベック(イースタン・タウンシップに集中した)、プリンスエドワードアイランド、ノバスコシアなどの北アメリカに残されたイギリス植民地に移住した。アッパー・カナダ(現在のオンタリオ州)やニューブランズウィックの新しい植民地が移住者のために創られた[31]。 アメリカの独立は世襲の階級や地位が無い状態で始まった。ただし、そのようなものを作ろうという意図でシンシナティ協会が結成されて動いたが不首尾に終わった。独立獲得後、連邦党の反対があったにも拘わらず、マシュー・ライアンが主張したような真の民主的政治が実現可能となった[32]。人民の権利が各邦の憲法に取り入れられた。かくして、アメリカの共和制の中核的価値観となる自由、個人の諸権利、平等および政治腐敗に対する敵意を広く保証することになった。ヨーロッパの古い秩序に正面から挑戦するということは、世襲制の政治権力に対する挑戦であり、統治は統治される者の同意の上に立っているという考えに挑戦するものであった。ヨーロッパの植民地帝国に対する革命が初めて成功したことは、他の多くの植民地人の模範となり、自分達も事態を打開して自治政府を打ち樹てることができると思わせるようになった[33]。 1777年、モロッコはアメリカ合衆国のイギリスからの独立を最初に認めた国となった。この2カ国は10年後にモロッコ=アメリカ友好条約を結んだ。1782年2月26日、ネーデルラント連邦共和国の7州の一つ、フリースラント州がアメリカの独立を認めた2番目の政体になった。この後の4月19日にはネーデルラント連邦共和国の議会が承認した。ジョン・アダムズは駐ハーグの初代アメリカ大使となった[34]。 アメリカの独立は「大西洋革命」の最初の波となり、フランス革命、ハイチ革命およびラテンアメリカの解放戦争へと続いた。余波は1798年のアイルランド蜂起、ポーランド・リトアニア連合やオランダの内乱にも及んだ[35]。 アメリカの独立は特にイギリス、アイルランド、オランダおよびフランスに直接の強い衝撃をもたらした。イギリスやアイルランドのホィッグ党員はアメリカを支援する発言を繰り返した。多くのヨーロッパ諸国にとって古い体制を崩壊させる教訓になり(16世紀末のオランダの反乱や100年前のイギリス清教徒革命は別として)、フランス革命のときのラファイエットなどの活動に表された。アメリカ独立宣言はフランスの人間と市民の権利の宣言にモバイルSEO を与えた[36][37]。 アメリカの独立の影響はラテンアメリカで特に顕著であった。アメリカ合衆国を自由を打ち樹て決定的な反映を享受した植民地のモデルとして、各植民地が独立への闘争を始めた。ラテンアメリカの歴史家達はアメリカ合衆国をモデルとする多くの結びつきを指摘している[38]。 アメリカ合衆国ではイギリスがその植民地全てで奴隷制を禁じた後も長く奴隷制を保持し続け、1865年まで続いた。アメリカの先住民族も悲惨な経過を辿った。イギリスの支配下では保護されていたものが、アメリカの下に入って以前の条約は反故にされ、その権利は侵害され、最後は土地を取り上げられた。 アメリカ独立の影響についての解釈は様々である。この多様さの中でも究極のものは、アメリカ独立は結局「革命」ではなくて、急速に植民地社会が変革されたわけではなく、遠くにあった政府が近くのものに置き換えられただけだという古い見解である[39]。歴史家のバーナード・ベイリン、ゴードン・ウッドおよびエドムンド・モーガンなどによって提案された最近の見解は、人民の自然の権利や人民によって選ばれた法体系というような共和制の原則に対する信奉が深まるにつれ、世界の情勢に深い変化と十分な影響を与えた、特徴有るまた急進的な出来事であったとしている[40]。 アメリカ独立後に国家が負った負債には3種類有る。最初のものは外国、特にフランスから借りた1,100万ドルであった。2番目と3番目はそれぞれ約2,400万ドルであり、戦争中の軍隊に食料、馬などの物資を売ったアメリカ人に対して国家および各邦政府が負っているものであった。大陸会議は新しい連邦政府が外国からの負債を償還することに同意した。その他に、戦争中、兵士、商人および農夫に対して、新しい憲法が政府を作って負債を払うということを認めさせて、発行した「約束手形」による負債もあった。各邦の戦費は総計で1億1,400万ドルに上り、連邦政府の戦費は3,700万ドルであった[41]。1790年、合衆国議会は各邦の負債を海外、国内に拘わらず合算して8,000万ドルを国家の負債とした。あらゆる者が戦時債権を額面通り受け取り、国の威信が保たれ信用が確立された。 パリ条約(英:Treaty of Paris)とは、1783年にアメリカ独立戦争を終結させた条約の1つ。 アメリカ合衆国とイギリスのSEO で結ばれた。イギリスがアメリカの独立を承認し、ミシシッピ川より東をアメリカ領とした。なお、アメリカに与したスペインおよびフランスとの間にはヴェルサイユ条約が結ばれた。 この戦争によってイギリスのヘゲモニーは制限されたが、イギリスの世界戦略に影響を及ぼすことも無く、勢力は維持された。逆にフランスは、北米植民地戦争の借りを返すことに成功したが、国家財政は底を尽き、困窮を極めた。ブルボン王朝の放漫経営が、国民の不満を募らせ、独立戦争が起爆剤となり、やがてフランス革命を呼び起こすことになった。一方アメリカ大陸では、アメリカ独立戦争、フランス革命の連鎖により、中米、南米でも独立の機運が高まって行く。 フランス革命への干渉を横浜 マンション として、プロイセンは1792年に、スペインは1793年にフランス革命政府へ宣戦布告した。戦争は当初第一次対仏大同盟側の有利に進んだが、フランスは国家総動員体制の整備などによって反撃に転じ、逆に両国の領土内へ攻め入る勢いを見せた。 1795年に至ってプロイセンは戦争の継続を断念し、フランス革命政府との講和を決めた。講和はバーゼルで行われ、フランスからはスイス公使のバルテルミー、プロイセンからはゴルツ、ハルデンベルクが交渉にあたった[1]。講和によってプロイセンはフランスのラインラント併合を認め、引き換えにライン川以東のフランス軍占領地域はプロイセンへ返還された。同年、スペインもフランスと和平し、占領地域の回復と引き換えに革命政府の承認とサントドミンゴの割譲を認めた。