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ワイタンギ条約(ワイタンギじょうやく、Treaty of Waitangi, M?ori: Te Tiriti o Waitangi)とは1840年2月6日、ニュージーランド北島ワイタンギにおいて、当時武力衝突が絶えなかった先住民族マオリ族とイギリス王冠との間で締結された条約のこと。 全てのマオリ族は英国女王の臣民となりニュージーランドの主権を王冠に譲る。 マオリの土地保有権は保障されるが、それらの土地は全てイギリス政府へのみ売却される。 マオリはイギリス国民としての権利を認められる。 という一見緩やかなものだった。しかしながら条約を英語からマオリ語に翻訳した訳文に問題があり、21世紀に入った今日においても、マオリ族の権利の問題として議論が絶えない。例えば「主権」 (sovereignty) を表すマオリ語が存在しなかったため、マオリ語の造語 「カワナタンガ」(kawanatanga) を使った。だがその造語は英語に訳して「主権」よりも「支配」(governance) に近かった。 このような経緯から、マオリ側の認識は「全ての土地は自分達のもの」というものであり、一方で白人側は「ニュージーランドはイギリスの植民地である」と捉えていた。 このため、1843年から30年間続くヒューマン の反乱が起こる。反乱は鎮圧されたもののニュージーランド政府はその後100年にわたり問題を放置、1975年に至りワイタンギ審判所が創立され、ワイタンギ条約で認められた権利について、再度審議が開始された。その結果、一部強奪された土地を返還し、英語だけだった公用語にマオリ語を加えた。 マヤリノ=ビドラク条約(西:Tratado Mallarino-Bidlack、英:Mallarino-Bidlack Treaty)とは、1846年12月12日にヌエバ・グラナダ共和国(コロンビア)とアメリカ合衆国との間で調印された条約。アメリカ合衆国がイギリスなどのヨーロッパ勢力に対抗しつつ西部開拓に向けての輸送ルートを確保するため、ヌエバ・グラナダ共和国(コロンビア)から現在のパナマ共和国地帯パナマ地峡でのアメリカ合衆国の通行権と通商の承認を受ける条約として調印された。これは後にパナマ地峡鉄道とパナマ運河の建設に一役を買ったが、ヌエバ・グラナダ共和国(コロンビア)からのパナマ共和国分離独立につながる一因ともなった。 1492年、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見し、ヨーロッパが更に西への航路を模索するなか1513年、探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが太平洋を発見。それに伴いパナマ地峡での鉄道と運河建設の機運が高まった。1588年7月、スペインの無敵艦隊がイギリスに敗れカリブ海域でのスペインの制海権が失われると代わってイギリスがこの海域で勢力を拡大。その後もヨーロッパの植民地争いの場と化していたアメリカ大陸は1775年のアメリカ独立戦争を経て、1823年にアメリカ大統領ジェームズ・モンローの外交原則モンロー主義によりアメリカ大陸でのヨーロッパの影響力の排除に成功した。 またこの時アメリカ合衆国は西部開拓時代を迎え安全に西へ物資を輸送できる輸送ルートを確保するため、リサイクルトナー パナマの地を統治していたヌエバ・グラナダ共和国(コロンビア)との交渉を開始し、条約締結に向けて動き出した。 1846年12月12日、調印されたマヤリノ=ビドラク条約はヌエバ・グラナダ共和国(コロンビア)がアメリカに対して公式に平和条約と友交を確認し、航海と貿易に関する権利を与えると同時に相互扶助の協定を意味していた。その上この条約はパナマ地峡を越える重要な通行権をアメリカに許可し、暴動とヌエバ・グラナダ共和国(コロンビア)からの独立抵抗運動の運動家達を武力で鎮圧する許可でもあった。結果マヤリノ=ビドラク条約下でアメリカは文官、小作農、ゲリラもしくは自由主義政党独立運動に対しパナマ地峡で軍事的に何度も介入することになった。 パナマ地峡鉄道1848年、アメリカ合衆国はカリフォルニアゴールドラッシュが始まると、民間資本でパナマ地峡の鉄道建設が可能になりパナマ地峡では地峡を横切るパナマ地峡鉄道の建設を開始し、その間にも再びヨーロッパからのカタログギフト は続いたが、1850年にイギリスとのクレイトン・ブルワー条約により合意。アメリカ合衆国主導のパナマ地峡鉄道工事が始められ7年を費やして完成させた。 1861年に勃発したアメリカ南北戦争は1865年に終結するとパナマ運河建設計画の機運が再び盛り上がりアメリカ議会はフランスの会社からパナマ運河の工事権と資産を買い入れるための行動を開始した。紆余曲折を経た1903年、アメリカ国務長官ジョン・ヘイと駐在コロンビア代理公使トマス・エランによる運河引継ぎに関する条約ヘイ・エラン条約が批准されることになった。ところが直前にコロンビア議会がこれを否決してしまった。これは莫大な運河の権利譲渡金を巡りフランスの会社とコロンビア政府との間で対立が起きていたためだが、この時コロンビア共和国の一部であったパナマ地峡はこの否決後、アメリカがパナマ独立運動家マヌエル・アマドール、フィリップ・ビュノー・バリーヤを支援し同年10月、無血革命によりパナマ共和国として独立を果たした。最終的に、マヤリノ=ビドラク条約はアメリカ合衆国が政治的、経済的にパナマ地峡に影響を及ぼすリサイクルショップ 神戸 な抜け穴を与えることになっていた。 同年11月18日、パナマ独立運動家フィリップ・ビュノー・バリーヤはアメリカ合衆国と運河条約を調印。しかしながらアメリカは運河構築のためのパナマ地峡の一片の通行権獲得に失敗したため、以後のコロンビア共和国からのパナマ分離姿勢を一変させた。 ロンドン議定書(ロンドンぎていしょ、英語:London Protocol)は、ロンドンにおいて取り交わされた議定書。議定書は1829年、1830年、1832年、1852年、1877年、1944年、2000年に取り交わされているが、特に1852年のものが歴史上有名であり、本項では以下、この議定書について説明する。 単に「ロンドン議定書」と呼ぶ場合、特に1852年5月8日に取り交わされた議定書を指すことが多い。ロンドン条約とも言う。この議定書の締結によって、第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争は終結した。スウェーデンと当時の列強である五大国によって締結された。 内容は、戦争終結に向けての外交による妥協であり、終戦条約ではなかった。戦争終結に向けて、スウェーデン王オスカル1世が列強と交渉し、妥結を目指したものである。この議定内容は、デンマークが1849年に布告した6月憲法をシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国に布告しないというものであり、係争国プロイセン王国にとっては、妥協とも言える内容であった。6月憲法とは、デンマークによる絶対王政を改め、議会政治を開始させるという内容である。これをシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国に布告し、公国の分離を防ぐのが狙いであった。しかし議定書では、6月憲法の両公国内への適用を認めていなかった。これは戦争終結に主点をおいたもので、デンマークの目論みが破綻したことを意味していた。 同時にこの交渉には、デンマーク王位継承者問題も含まれていた。デンマーク王フレデリク7世を最後にオルデンブルク家断絶は決定的であり、「王位継承法」によってオルデンブルク家の支流グリュックスブルク家のクリスチャン9世が指名された。親ドイツ派で戦争の首謀者であったアウグステンブルク家(オルデンブルク家の別の支流)のノール公フリードリヒは王位継承権を放棄させられた。これはデンマーク側にとっては一つの勝利であった。 しかし一方で、議定書の大半はデンマークにとって納得出来るものではなかった。実情は現状維持であり、終戦を意味していなかった。スウェーデン王オスカル1世はこの戦争終結によって名声を得たものの、議定書の内容に納得していなかった。デンマークとスウェーデンは急速に結びつきを深め、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国のさらなる安定を追求していくこととなった。一方プロイセン王国も、オットー・フォン・ビスマルクと言う稀代の政治家の台頭により、新たな展開を迎える。