ヴェルサイユ条約の過酷な条件がナチスの台頭の原因、そして1939年から始まる第二次世界大戦の遠因となってしまったため、第二次世界大戦後の敗戦後のドイツには、連合国は東西両ドイツにも過酷な請求はせず、逆に復興に力を貸している。もっとも、これには第二次世界大戦後は第一次世界大戦後とは異なり、戦勝国の間ですぐに冷戦が始まったため、両陣営がその最前線となった東西ドイツの復興に力を注いだ、という情勢も関係している。同じく敗戦国であり、ヴェルサイユ条約時には戦勝国だった日本国に対しては、為替 大戦後、アメリカ、イギリス、オランダ、中華民国、フランス、オーストラリアといった主要交戦国は賠償を放棄したものの、戦場となったアジア各国の中には個別に賠償金の支払いを要求した国もある。 サン=ジェルマン条約(サン=ジェルマンじょうやく、英:Treaty of Saint-Germain)は、第一次世界大戦の後の1919年9月10日に連合国側とオーストリアの間で結ばれた条約。なお、締結地サン=ジェルマン=アン=レーにちなむ名称であるので、正式にはサン=ジェルマン=アン=レー条約と呼ばれるべきであり、フランスではその名称が正式なものであるが、一般に(日本語はもとより英仏語などでも)サン=ジェルマン条約と呼ばれる。 サン=ジェルマン=アン=レーでの講和会議は1919年5月にはじまったが、オーストリア代表団の出席は認められず、文書での提案しか認められていなかった。この条約は、1920年7月16日に発効した。 ボヘミア、モラヴィアのドイツ語圏地域、ならびに低地オーストリアのいくつかの市は、新たに成立したチェコスロバキアに属する。 チロル南部のドイツ語圏(現在のボルツァーノ自治県)、トレンティーノ地方はイタリアに属する。 Basse-Styrieのいくつかの地区とCarinthieのMiess渓谷は、セルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国に属する。 ハンガリー西部のいくつかの地区はブルゲンラント州の名でオーストリアに属する。 ドイツとオーストリアの併合(アンシュルス)は禁止する。 オーストリアは賠償を払う義務を負う。また、徴兵は認められない。 トリアノン条約(トリアノンじょうやく、Trianoni bekeszerz?des, Treaty of Trianon)は、第一次世界大戦の敗戦国となったハンガリー王国と連合国が結んだ講和条約。1920年6月4日にヴェルサイユのトリアノン離宮で調印された(トリアノンはグラン・トリアノンとプティ・トリアノンがあるが、この場合は前者 Grand Trianon)で調印された。 ハンガリーは株 中はオーストリア・ハンガリー帝国の一部であったが、帝国は第一次世界大戦に敗北した結果解体され、この国もオーストリアから分かれて独立したため、オーストリアとは別に講和する必要ができ、この条約を結ぶことになった。 この条約により、ハンガリーはオーストリアとの合邦以前から領有していた歴史的領土のうち、大部分にあたるスロバキア、クロアチア、トランシルバニアを、それぞれ連合国側についた周辺の戦勝国チェコスロバキア、セルブ・クロアート・スロヴェーン王国(のちのユーゴスラビア)、ルーマニア王国に割譲し、現在のハンガリー領に相当する領域へと大幅に縮小された。また、さらに石炭や家畜などの連合国側への無償提供、さらには賠償金の支払いの要求など、一方的であまりに過酷な条件を連合国側から押し付けられた。 この当時のハンガリーは相次ぐ政権交代で混乱状態にあり、ハンガリー側はこの過酷な要求を飲み込まざるを得なくなり、結局この講和条約に調印した。この条約の厳しい内容は、ハンガリーが第二次世界大戦で枢軸国側に立って参戦する遠因となった。 セーヴル条約は、第一次世界大戦後の1920年8月10日に連合軍とオスマン帝国との間に締結された条約。フランス・パリ郊外のセーヴルで締結された事からこの名が付く。オスマン帝国はこの条約によって広大な範囲の領土を失った。 条約の骨格は1920年4月のサン・レノ会議で決定されている。 条約を締結したメフメトIPO 世率いるオスマン政府(イスタンブル政府)に対し、共和制派のアンカラ政府はこの条約に反対した。条約締結後に更なる領土の拡大をはかろうとしてギリシャがおこした希土戦争で勝利したアンカラ政府は、ソ連と単独に条約を結んだため、旧連合国は再び交渉の席につきローザンヌ条約を締結、現在のトルコ領が確定した。 英愛条約 (The Anglo-Irish Treaty) はアイルランド独立戦争の休戦条約としてイギリス政府とアイルランド共和国暫定政府との間に結ばれた条約をさす。大英帝国内の自治国としてのアイルランド自由国の建国が取り決められた。1920年に制定されたアイルランド統治法により成立していた北アイルランドの帰属については北アイルランド自身の決定にゆだねられた。 条約は1921年12月6日ロンドンにおいてイギリス政府の代表と超法規的なアイルランド共和国暫定政府の代表により調印された。条約の履行にはアイルランド独立派の設立した議会とイギリス政府が設立した南アイルランド議会、イギリス議会の批准が必要とされた。アイルランド国内では条約の賛否を巡り激論が起き、議会では小差で批准された。条約は正式に履行されることになったものの、アイルランド国内の対立はアイルランド内戦の原因となった。 アイルランド自由国は外貨預金 と英国議会において起草された自由国憲法を基に、1922年12月6日イギリス国王の勅書により建国された。 第一次世界大戦が終結した後も、戦勝国となった連合国側は海軍力(特に戦艦)の増強を進めた。各国の軍備拡張計画の内、代表的なものは、アメリカの三年艦隊計画(別名ダニエルズプラン)と日本の八八艦隊計画である。 しかし、軍備拡張に伴う経済負担は各国の国家予算を圧迫し、建造計画の遅滞を引き起こすことになった。先の八八艦隊を例に取れば、艦隊建造のためだけに国家予算の1/3を使い、維持だけでも半分弱を使うことになる。 このため、アメリカ合衆国大統領ウオレン・G・ハーディングの提案で戦勝5ヶ国の軍縮を行うことになる。